事の発端はキッチンのシンクに挽いたコーヒーの粒が残っていたことから始まった。
仕事から帰宅しそれを見た殿様は、ただ無言であきれた表情をし顔を横に振る。
「何その顔?どうかしたの??」
わたしが聞いても、やれやれといった顔そのままに無言でキッチンの掃除をはじめる殿様。
殿様はかなりのきれい好き。
一方わたしというと、汚いわけではないと思っているが潔癖ではない。
わたしたちの美的感覚にはけっこうなズレがある。
事実、シンクにコーヒーが残っていたのも気づいてなかったし、注意してみてもいなかった。
殿様はこういったのが許せないし、少しのゴミくずが落ちているのもあり得ないなのだ。
「君は毎日家にいて一体何をやってるんだ?」
その声は明らかに怒っている。
「今までずっと仕事してたけど、それが?」
少しイラっとしながら答えるわたし。
「全く…。」
呆れた声の殿様
「部屋中が汚いじゃないか!一日家にいて気にならなかったのか?」
「仕事してたってのはウソでホントは寝てたんじゃないのかよ」
「こっちは疲れて帰ってきてるってのに、部屋は散らかり放題、ノーメイクに部屋着の嫁、なんなんだよ一体…」
殿様は怒りをぶちまけた。
正直わたしレベルでいうとお部屋は散らかっていなかった。
なんなら今すぐお友達がきても、どうぞどうぞと招き入れられるくらい。
だが殿様いわく、これは俺のスタンダードではないと。
「え、何?わたしだって働いているし、あなたが思うほど暇じゃないんですけど」
「気になるならはじめからちょっと掃除してって言えばいいのにさ、無言でむかついた表情を見せたのはどっちよ」
「ってか気づいたなら自分でキレイにすればいい話でしょ!わたしはあなたのメイドじゃないから!!」
特に言い返すわけでもなく、顔色を変えず
「もういい、食事、洗濯何もしなくていい。自分のことは自分で全部やるから」
そういって、自分の夕食を用意しはじめた殿様。
素直に一言ごめん…そういえば終わってた話だったんだけど、どうにもこうにもひっこみがつかなくなって
「勝手にしたら」
これしか言えなかった。
本当はわかっていたんだ…。
殿様はどこにいても女性らしさを忘れることなくキレイでいてほしい。
外出するとき自分の好みじゃなければ着替えてというし、家の中でもきちっとした服を着ててほしい、なんなら寝るときの格好から下着まで自分好みでないと嫌なタイプ。
これに関しては何度も言い合いになった。
基本的に露出のあるものや体のラインがわかるセクシーな洋服を好む殿様。
わたしはヴィンテージやボーイズライクな服装が好き。
そもそも好みが全く異なる。
「好きな洋服が着たいし、これが個性じゃん。わたしはあなたの着せ替え人形じゃない!」
こんな感じで何度も言い合いになった。
でも殿様は変わらない。
100%殿様の好みの女性を演じるのは違うと思うけど、彼の好きなテイストも少し取り入れようと決めた。
殿様色に染まるんじゃなくて、わたしはただ平穏に暮らしたいだけなんだ。
だから波風を立てるようなことはしなくない。
これまでわたしの服装を指摘するような男性とお付き合いしたことがなかったから「ヴィンテージとかもう着ないで、そんなイモっぽい格好ダメ」と言われたときは、正直あんた誰だよ????と理解不能だった。
自分の好きな洋服も着れない、あれするな、これしろ、何かと指図をしてくるこの男性と一緒にいる意味はあるのだろうか?
幾度となく離婚を考えた。
でも思いとどまっているのは、口うるさい殿様だけど基本的にはわたしのことを第一に考えてくれる優しい人だから。
…わかっちゃいるけど…
ある雑誌の原稿の締め切りが近づいていて日本から帰国して以来ずっと続いた朝までのライティング作業。
その次は本業での期限付きのタスクに追われ、帰国後2週間はメイクする時間さえも惜しいくらい多忙だったのだ。
たしかにノーメイクだし、パジャマではないけどパーカーにレギンスとラフな格好、夕食を用意しない日が続いた。
頭のどこかではわかってたんだよね、そろそろ殿様に怒られそうだなって。
お互い無言で食べる夕食。
顔を見ることもなく、まるで相手がそこにいないかのような完全無視状態。
険悪ムードが続く中、耐えきれずわたしは家を飛び出した20時30分。
そういえば、ペーパータオルと洗剤きれそうだから買っておこう。
車を走らせ向かった先は日用品スーパーTarget
そのあとはLAで一番きれいな夜景が見れるシグナルヒルのHilltop Parkに。
とにかく心を落ち着かせたかった…。
高台から180度見渡せる宝石のようにキラキラ輝くロサンゼルスの夜景に、ロングビーチの工場地帯を照らすライト。
目を閉じて深呼吸。
「明日になれば殿様は忘れたように機嫌がよくなっているだろう」
実際、喧嘩した翌朝ケロッと起きてくることがちょくちょくあるから今回もこのパターンだと思っていた。
家を出てから2時間、眠くなってきたところで家へ帰ることに。
戻ると殿様はソファーに座りいつものように赤ワインを飲んでいた。
帰宅したわたしの顔を見ようともしない。
「まだ怒ってるな…」
早々にシャワーを済ませベッドにはいった。
翌朝…
土曜日だというのに珍しく早く起き、出かける支度をしている殿様。
「でかけるの?」
明らかまだ怒り冷めあらず表情で
「俺は自分の好きなことをする、だから君もすきにしろ。俺にかまうな」
プッチーンっっ!
あぁ、もう無理だ。
この人とは同じ空間にいたくない。
洋服やコスメセット一式を旅行バッグにつめてわたしは家を飛び出した。
「今日はもう帰ってこないから!」
そう言い放ちドアを乱暴に開けた。
さて、どこへいこう。
結婚してからというもの1人で遠出することはなく、どこへ行っていいのかパッと思いつかなかった。
とにかくのんびりしたい。
となるとパームスプリングスのホテルでゆっくりするか。
でもいま冬だしなこの時期プールサイドは寒いだろうし…。
ジョシュアツリーあたりのAirbnbもいいな。
いや、待てよ。
サンディエゴのリトルイタリーって、確かこじゃれたレストランが集まっているんだよな。
久々にいってみるか!
わたしは10年ぶりにサンディエゴへと向かった。
サンディエゴまではロサンゼルスから車で約2時間。
ドライブするにはちょうどいい距離。
道中、ビーチを横目に懐メロを爆音で聴き、1人カラオケで熱唱。
正直これだけでもわりと気が晴れた。
久々に来たダウンタウンにあるリトルイタリーは、10年前のパッとしなかった雰囲気とは全く別物で、おしゃれな内装のレストランが立ち並び多くの人々で賑わう活気ある通りになっていた。
「このレストラン殿様と来たかったな」
水平線に沈みゆくきれいな夕陽をみては
「殿様にもこの景色を見せたかった…」
何かにつけて殿様のことがふっと頭をよぎる。
独身のころは1人でおでかけやドライブをしていたから、1人時間の楽しみかたを知っていると思っていた。
でも実際どうだろう…。
こうして1人でドライブに来てみたものの、全然楽しくないじゃないか。
殿様といるようになってから、いつも彼がわたしのそばにいて、一緒におでかけするのが当たり前。
いつしか1人でいることより、2人で過ごす時間のほうが楽しくなっていたんだ…それに気づいた。
「ごめんなさい…あんな態度とっちゃって。ちゃんと家のことするよ」
素直に謝り、めでたく仲直りした。
「君がもし今日どこかに泊まって帰ってこなかったら一生そこにいろ、戻ってくるなって言うつもりだったよ」
笑ったような顔をした殿様の目は、1ミリも笑っていなかった。